パチンコの歴史、規制についてのまとめ・パチンコの未来を考える

「パチンコの起源って何だろう?」

「いったい、いつから始まったんだろう?」

そんなこと考えたことはありませんか?

いったいパチンコとは、いつから始まって、どんな歴史をたどってきたのか、あまりよく知られていません。

そこで、パチンコの歴史をまとめてみました。そしてパチンコ業界の規制などの問題点、パチンコの今後について考えてみたいと思います!

パチンコの歴史

パチンコの起源

パチンコのルーツは、「コリントゲーム」と言われたりしますが、実際にはヨーロッパの「ウォールマシン」が起源と言われています。(下の写真左側がコリントゲーム、右側がウォールマシン)

コリントゲームは、ヨーロッパの「バカテル」を真似て作られた日本製のゲームです。ウォールマシンは1900年(明治33年)ヨーロッパで誕生し、日本では1925年頃から広まったと言われています。

「コリントゲームってなんか見たことあるな~」

と思ったら、子供のおもちゃにこんな感じの物を見た事がありました。案外身近な物だったんですね。

第二次世界大戦終戦までのパチンコ業界

日本でのパチンコの始まりは、大阪の露天商から全国に広がりました。当時のパチンコは一銭パチンコで、一銭を投入して玉を出し打ち出します。当たり穴に入れば一銭が戻ってくるしくみです。このパチンコが現在のパチンコに発展していったようです。

昭和5年には、パチンコホールの第一号店が名古屋で開店しました。その後高知でも開店し半年で35店舗開店するほどの大ブームとなりました。ギャンブル性が高く、その射幸性は社会問題になるほどでした。そして昭和7年ついに大阪で全国初のパチンコ禁止令が出ました。翌年には福岡でも禁止されます。当時パチンコ遊技機を製造していた会社は韓国や中国、台湾に活路を求めて進出しましたがうまくいかず撤退します。

日中戦争がはじまると、「不要不急の産業」として新規出店が禁止になりました。また、パチンコ玉も金属供出ということで軍に回収されることになり、開業したくてもできない状態になったのです。

そして終戦を迎え、また露天商からの再出発となります。

戦後のブームの火付け役「正村ゲージ」

戦後のパチンコブームの火付け役になったのが、正村商会の第一号機の七五三。バラ釘と呼ばれる均一に打った釘の間を玉が落ちていく単調なものですが入賞する穴によって払い出し数が違っていました。今までは払い出し数が同じだったので、画期的な台となり大ヒット。その後のブームの火付け役となりました。

そのあと登場したのが「正村ゲージ」です。

昭和24年、正村竹一氏が考案したもの。もっと多くの人に楽しんでもらいたい、と寝食を惜しんで考え出した正村ゲージの第一号が「オール10」。この台を考案した正村氏は、あえて特許を取らず、ほかのメーカーに真似をさせることを許しました。そのことが、かえって正村ゲージの人気を上げていきました。

正村さんの凄いところは、自分だけが美味しい思いをするのではなくて、自分が開発したパチンコ遊技機を他の人にも作ってもらう、という心持ちですよね。自分だけが儲かるんじゃなくて他のメーカーにも頑張ってもらってより多くの人がパチンコを楽しめるようになれば嬉しい、という気持ちが立派ですね。

「正村ゲージ」の誕生後、昭和26年には空前のパチンコブームが到来。パチンコホールの数は1万2千、パチンコ製造は名古屋に70%が集中しました。その後もパチンコ店は急増し4万店以上にもなっていました。その一方で、15歳未満の出入り禁止という規制が始まり、その後18歳未満は入場禁止になり、出玉も連発は禁止、など様々な規制がかかり、パチンコ産業は経営の危機に直面するようになります。

 

昭和30年代から第二次パチンコブームを経て現在まで

一旦は下火になったパチンコも、また30年代後半からの高度成長期の到来で再びブームとなっていきます。そこには、ジンミットやチューリップといった「ヤクモノ」が登場したり、40年代には現在のパチスロ機の原型となる「オリンピア」が登場したりします。また店舗の大型化も進んでいきました。

昭和55年頃にはその後のパチンコの原点となる「フィーバー」が誕生し、各社スロットマシンを開発し第二次パチンコブームへ。

デジタルパチンコ(いわゆるデジパチ)が主流となり、機種も多数出てきました。日本は高度経済成長期の真っただ中にあり、デジパチの射幸性も相まって空前のパチンコブームになりました。パチンコ攻略本も出版されたほどです。

そんなパチンコブームの中で、ある事件をきっかけにまたもや自主規制を余儀なくされました。その事件というのが、「ダービー物語事件」です。パチンコ店の潤沢な利益を守るためには、出玉の調整がどうしても必要になりますが、それをするとギャンブル性が高まってしまう、パチンコ店に規制の風が強まる中、少しでも利益を残そうとして起こったのがこの事件です。そもそも、パチンコ店でギャンブル性を落として利益を得る、ということが矛盾していることなんですよね。

この事件以来パチンコ店の自主規制が強まり、一度は1万8千店ほどになっていたパチンコ店も再び減少に転じ、現在は約1万店で推移しています。

パチンコ業界の規制

1925年頃から広まったパチンコ。1941年に太平洋戦争がはじまり、1942年に第二次世界大戦が勃発すると、パチンコは不要不急産業として全面禁止となりました。

終戦後、再び露天商からパチンコ店は再開。そして正村ゲージの開発により、第一次パチンコブームとなります。しかし、パチンコがブームになると、そのギャンブル性から生活に支障をきたすほど大負けをする人も出てきて社会問題となり、パチンコ台の連発式は禁止に。そうなるとパチンコブームは下火になっていき、店舗数も1万店を割り込んでいきます。

パチンコ業界は射幸性を抑えた遊技機の開発に向かい、やがて「チューリップ」などの「ヤクモノ」や現在のパチスロの原形となる機種も開発されていきます。そうして、第二次パチンコブームを迎えることになります。

パチンコブームの陰で不正に釘を調整したとして、1993年「ダービー物語事件」が起きました。業界としては、利益率を担保したまま客足も確保したかったのですが、そのことがかえって違法機種を世に広めることになってしまいました。このことをきっかけとして、パチンコ業界は連発式の開発を自主規制していきます。

2018年には遊技機検定規則の基準が改正されています。その改正基準を以下に示します。

  • 大当り出玉数の上限は1500個(それまでは2400個)
  • 小当たりラッシュの期待値を1500個(それまでは2400個)
  • 継続率65%以上のリミッタタイプの最大出玉を6000個未満(それまでは7200個未満)に、一般電役の総量は4500個(それまでは4800個)に引き下げ
  • 大当りラウンドの上限は10ラウンド(それまでは16ラウンド)
  • 検定試験項目に、4時間における出玉試験を追加
  • 大当り確率において6段階の設定が可能(スロットと同様)
  • 4時間の遊技での出玉払い出し数を発射総個数の1.5倍未満とする

(Wikipediaより引用)

パチンコ業界は、生き残るためにゲーム性を高めた台の開発など努力をしていますが、パチンコ離れは解消できていません。そもそも、パチンコはギャンブル性があるものですし、そのギャンブル性を抑えなくてはいけないのですから、客足が遠のくのも無理はありません。

社会問題もたくさん起きてきました。子供の車内置き去り、育児放棄、多額の借金による自己破産など。パチンコ依存が引き起こす様々な弊害により、パチンコは害のある遊技として見られています。

パチンコ依存症の3つの特徴から依存度をチェックリストで確認してみよう

パチンコ業界の今後とまとめ

パチンコの歴史は古く、庶民が気軽に遊べるものとして導入され発展してきましたが、同時にギャンブル性も大きく、ともすれば個人の生活を破壊してしまうほど危険な遊びです。

正村ゲージを開発した正村さんは、一人でも多くの人に遊んでもらいたい、という純粋な気持ちでこのゲーム機を開発されたと思うのですが、その思いとは裏腹に、多くの愛好者はのめりこみ、パチンコ依存となっています。

健全な遊びとしてパチンコが生き残るためには、このギャンブル性、依存症の問題を解決しない限りは難しいのではないかと思います。それに、パチンコ店は儲かる仕組みになっているのだと、歴史を振り返るほどに確信しました。

パチンコ店を利用する人がよほど冷静に遊んで一定の金額以上は使わない、と決めて遊ぶか、最初からパチンコはしないと決めるかどちらかにしないと、こうした社会問題はこれからもなくならないだろうと思います。

パチンコ業界が今後変わっていけるのかは未知数だと思います。利用する側も賢く利用したいものですね。